第8回目/「下町歴史散歩 内町6」

京橋の決闘
「樵擢集」(しょうたくしゅう)は米子藩士栗木尚謙が、江戸時代のはじめ米子で起きた出来事を書き残した記録である。その中に、「石州高野市右衛門一件」という事件記録が描かれている。
 所謂(いわゆる)「京橋の決闘」と言われる事件である。寛永6年(1629)2月28日朝、旅籠岩田孫兵衛方へ石見国の石州高野市右衛門、息子長四郎、家来斎藤善右衛門、松尾次郎右衛門と小者二人ら六人が止宿した。同日「九ツ時」(正午)頃、旅籠塩屋与左衛門方へ高野らの一行を追ってきた村井助之丞、同弥次右衛門、朽田与左衛門、木村弥兵衛らの十二人が宿泊し、主人与左衛門に藩の運上金(上納金)の計算が合わず出奔した高野らを追ってきた、奉行所に申し上げたい事があるので取次いでくれる様に依頼した。その夜魚屋甚太郎へ米子城より小出兵左衛門、福屋四郎兵衛、町奉行大脇九郎兵衛、難波又左衛門ら六人が来て、追手衆と談合し「高野は運上金の計算が合わず出奔した者で、米子から逃げ出さないように番人を立ててもらいたい」と申し出た。奉行所は「池田出羽は鳥取に出かけており、勝手なことはできない」と断った。20日の「五ツ時」(午前8時)石州の丹後守よりの書状を携(たずさ)えた、高木五兵衛、鹿野忠兵衛、峰岡喜兵衛の三人が到着した。その文面には「高野は運上金の計算が合わず出奔した者であるので、石州へ帰すようにして貰いたい。もし帰らないと言うのであれば追手の勝手にさせてもらいたい」と記されていた。
 その後の経過は、伯耆坊俊夫氏の「よなご京橋の決闘」が詳しく、お許しを得て引用させて戴く。
 2月20日巳の刻(午前10時)京橋付近が騒々しくなった。侍たちが何事か声高に話し合い、町人たちは驚いて足を止め、そして慌てふためいて逃げて行った。風が冷たく堀の水面にさざ波を立てた。高野市右衛門と倅長四郎、偕屋九郎兵衛の三人が、部屋で雑談している時、追手の村井助之丞が躍り込んで来た。市右衛門は高腿を斬り落とされる重傷を負った。
 長四郎が助之丞の胸を抜打ちに払ったが外れ、二の太刀で指を斬り落とし助之丞は退散した。続いて飛び込んできた木村弥兵衛も腕を斬られて退いた。
 さらに続いた難波又左衛門も、顔面を割られて即死した。一方、松田与左衛門は高野の家来の斎藤善右衛門を斬り殺したが、長四郎に股を斬られて深手を負い逃げた。血にまみれて倒れていた高野市右衛門を、偕屋九郎兵衛が助け起こし、腹を切らせて介錯した。首を断つ刃音におびえた家来の松尾次郎右衛門は、裏の堀川に飛び込み、足を取られたところを、殴り殺された。
 追手衆の篠井善右衛門は臆病で、宿の中へ討ち入る事が出来ず、米子の出羽衆に助けを頼んだ。矢島八郎兵衛という若い侍が、部屋にいた偕屋九郎兵衛を意見番と知らず槍で突き殺してしまった。
 長四郎の働きは見事だった。宿を飛び出すと槍の上を飛び越え、群がる追手を蹴散らした。出羽衆の杉藤右衛門に組み付いて、手傷九ケ所を負わせたところを、同じく出羽衆の野崎十兵衛の槍のため突き伏せられた。果敢に一人戦った長四郎は、まだ元服前の十四歳、哀れ至極と、惜しまぬ者は無かった。騒ぎの直後、石州の丹後から書状が届いた。「高野が江戸に行くとあらば行かせ、戻るとあらば戻らせても良い」とあった。最初の書状と全く内容が違うだけに、皆唖然となった。
 「村川市兵衛の覚え書き」
 高野長四郎働きの節、前髪面に垂れ掛り候を、左手にて掻き上げ、刀を以て前髪を剪り、京橋の上より川中に投ぐ、其の時の形勢、勇気勃然として天晴見事に候。且又長四郎剣を揮って立ち出ずれば、追手の面々京橋を渡りて曳き、退足にて轟々とおびただしく聞こえ候由、老古申伝え候。 高野父子墳墓は吉祥院の裏通り、旗ヶ崎へ出る畑中に在る也・・・・・・と。

 と四時間に及ぶ決闘の様を述べている。丹後の書状が最初のものと違い、町奉行の大脇九郎太夫は、追手衆の帰国を留め、宿には番人を付けておいて二十四日急遽石州へ出向き二十八日帰国すると、追手の一行の帰国を許した。
 歴史は過ぎ去ってゆくものであるが、約380年前に京橋を舞台にして、歴史の一齣が展開されたのであった。

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