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2011年「古代史(邪馬台国)サミットin伯耆」での質問への回答一覧
2011年11月22日
日本(山陰)と朝鮮との関係はどういうものか?
古代からの日本と朝鮮半島との交流は、古くから日常的で活発なものだったと考えています。縄文時代では、縄文式土器が朝鮮半島や中国・東南アジアからも出土しています。弥生時代では青谷上寺地遺跡の卜骨とほぼ同じものが朝鮮半島から出ています。古墳時代には仏教や都市建設は朝鮮半島を通じてもたらされました。中世以降も朝鮮通信士が往来をしています。江戸時代には、朝鮮半島南部に日本から来た人々(漂流者も含めて)を一時逗留させる施設も作られていました。
文献上からみると、日本書紀の異聞にスサノオノミコトが高天原から降り立った場所の一つが朝鮮半島の新羅だったと書かれています。針間の国の風土記の逸文には、朝鮮半島からアメノヒボコがやってきたと書かれています。出雲の国の風土記の国引き神話には朝鮮半島から4つの島の一つを引っ張ってきたと書かれています。
又、近年朝鮮半島南部(百済跡)から大量の前方後円墳が発見されており、神功皇后の朝鮮出兵の話しなども実際にあったことと理解されています。
以上、考古学的にも歴史学的にも、日本と朝鮮半島の交流は、古くから活発に行われていたことが伺えます。
しかし、私は、やはり日本の国(国家の指導部達)は、「朝鮮半島」を見ていたのではなく、「中国」を見ていたと判断しています。
それは、遣唐使や遣隋使があっても遣朝使はありません。又、日本は古墳時代の失敗のあと、最終的に朝鮮の文化や文明で日本の国を置き換えずに、中国の文明文化に置き換える判断をしてリセットしました。
日常的な交流があり、近しい関係であったことと、お手本にしようとしていたこととは話しが違うわけです。当時の最先端の文明文化・サイエンステクノロジーを持っていたのはやはり中国であり、この国との関係を日本の国家は一番重要視していたと考えられます。
10月を神在月、神無月と呼ぶことに対して・・・
神在月・神無月の伝承は有名で、日本人なら誰でも知っています。しかし、この話しは国際的には日本の国にしか存在しない伝承であり習慣です。なぜ、旧暦の10月(新暦ではほぼ11月の上旬)に、日本中の神々が全員山陰地方に集まってくるのでしょうか。これは拙本に詳しく書いていますので、又見ていただけると幸甚ですが、結論からいいますと「田の神」伝承が変化したものだと私は考えています。「田の神」伝承とは、「春になると田の神様が田んぼにやってきて、秋になると帰って行く」という伝承で、南は鹿児島から北は青森まで、全国津々浦々に残されています。
地方によっては、荒神さんや斉の神とも習合したり、道祖神とも習合していますが、もともとは「田の神信仰」が、源流となっています。
この分野は「考古学」や「歴史学」ではなく、「民俗学」の研究分野となっています。この「田の神」伝承を突き詰めていくと、2通りの話しの系統があることが分かります。
1つの系統は、「田の神様は春になると山から田んぼにやってきて、秋になると山に帰って行く」という伝承です。これが後ほど田の神が「山の神」とも呼ばれるようになった原因だと考えています。田の神も五穀豊穣の神ですが、山の神も又恐れられる神です。
もう1つの系統は、「田の神様は春になると出雲から田んぼにやってきて、秋になると出雲に帰って行く」という話しです。私は、こちらの方の「田の神様は出雲からやってきて出雲に帰る」と日本中で伝承されてきた話しが、神在月・神無月の暦の元になったと考えています。
田の神祭りは、様々な形で地域に残っています。九州では「堂籠もり」という行事があります。東北では「田の神迎えと田の神送り」の行事が無形文化財になっています。山陰でも田起こしや田植え踊り・田植え唄などが、田の神伝承を伝えています。きっと、もっと様々な形に変えて、日本中にいまだに残っていることでしょう。
古代日本の中心は山陰地方には賛同したいが邪馬台国問題とは異なるように思えるが・・
この課題の説明は、いつも難しい問題になります。私の本に、基本的には魏志倭人伝や卑弥呼や邪馬台国が出てこないことも混乱を招いています。日本の歴史はいまだに不明のままです。世界200ヶ国の中でも、その国の歴史が分かっていないのは日本の国ぐらいと言われるほど、本当に奇妙な現象で困りものと言えるでしょう。その結果として、邪馬台国「論争」が存在し、いまでも延々と続いています。
この国の誰にも、この国の歴史が分からない状況があるのです。突き詰めると、現在この論争は、主に古代日本の中心が「畿内」であったか、「九州」であったかの議論に象徴された東大と京大の学閥論争であり、三国志・魏志倭人伝の解釈の違いの論争です。
それは、中国にいて伝聞によって書かれた文献をもとに、日本の古代史論争が構築されてしまったから起こった現象です。したがって、日本の古代史論争は、好き嫌いは別としても、結果として今日「邪馬台国論争」になってしまったのです。この糸をほぐさない限り、日本の歴史研究は終わりません。
日本の歴史を調べるには、原則として日本の情報を基にすべきと私は考えます。自分の家の状況を調べるのに、他人の家の話しを元に分析してもどうしようもありません。加えてその情報は、伝聞でありうわさ話に等しい内容も含まれているかもしれないからです。
三国志をまとめた陳寿本人が、中国以外の周辺の国の話しは、伝聞によって書いたものなので、正確ではないから注意するようにと但し書きをしています。
良くいただく質問なので、今回は別の方向から見てみます。さて、皆さんが、これらか試験問題を解くとしましょう。学校の試験でも国家試験でも自動車運転免許の学科試験でも、何でも結構です。
全部で100問ある試験を解きはじめて、最初の2〜3問目で問題が発生しました。どうしても解けない問題が出てきたのです。これまでの学習や知識では解けない問題が出ました。或いは、調べてきた試験の範囲以外から出された問題でも結構です。その時点ではやはり解けない問題なのです。さて、この様な時に、皆さんなら一体どうしますか? どういう方法が一番的確で、一番正しい方法なのでしょうか。
賢明な方はもう分かると思います。きっと試験菅からもアドバイスがあることでしょう。こういったときに最も的確で正しい方法は、「その問題をとりあえず飛ばして、次の問題に進むこと」です。
100問中の残り97〜8問を解いてから、また戻ってくれば良いのです。途中でまた分からない問題が出ても、とりあえず置いておいて最後の100問目までは必ず目を通す必要があります。一通り、問題を見終わってから、残してきた問題に再挑戦するのです。
この時、100問まで積み上げてきた結果として、最初残してきた問題が解けるように
なっているかも知れません。残りの97〜8問まで解けずに、ほとんど白紙で提出し、点
が取れないような最悪の状態よりはましでしょう。
私は、現在の日本の古代史論争が、この前者の悪い例の状態にはまり込んでいると考えています。つまり、最初につまずいた2〜3問目が、陳寿がまとめた三国志・魏志倭人伝の解釈の問題です。いきなり、「邪馬台国の場所」と「卑弥呼が誰か」を問われました。魏志倭人伝を元に議論を積み重ねても、当然この問題は解けるはずがありません。情報の確度も正確ではないうえに、情報量も少ないからです。それでは、どうしたらいいのか。
とりあえずこの問題は置いておいて、最後の100問目まで目を通すことです。この残った大量の問題に、自然科学の膨大な分野、考古学、歴史学、民俗学、中国の他の文献等々の課題が延々と詰まっています。これらを最後まで解いたときに、ようやく最初の2〜3問目である陳寿がまとめた三国志・魏志倭人伝の解釈の問題が解けるはずです。
陳寿の記録が、日本のどの研究分野の何を語っていたのか。それは違っていたのか良くあっていたのか。等々の総合的な評価を下すことが出来るはずです。したがって、私は最終的には、日本の古代史の問題と邪馬台国の問題はつながっているために、いずれ双方の解釈が一致する(陳寿の情報の不正確さも含めて)時が来ると考えています。
金属が貴重な時代に銅鐸・銅矛・銅剣はなぜ埋められたのか?鋳潰されたのではないか?
言われるように、金属が貴重な時代に銅鐸・銅矛・銅剣はなぜ埋められたのかは、大変重要な問題です。この問題を解かずして、日本の古代史の謎を解くことは永遠に出来ないのではないか、といってもいいほど本来なら重要な問題ですが、不思議なことに、この問題もほとんど検討されていません。私は、記紀に書かれている「国作り」と「国譲り」が、実際にあったことだから起こった事態と考えています。つまり、「国譲り」の結果、国津神であるオオクニヌシノミコトが幽界の神事を受け持ち、出雲の国に治り玉だけを作り続けることを約束、天津神はそのお礼に天津神の神殿を建てて国津神であるオオクニヌシノミコト達を未来永劫祀り続けると約束しました。そして、結果としてオオクニヌシノミコト達は約束通り「国津神達の祀りごとを全て辞めた」わけです。(天津神=天皇家も約束を守り続けています)
それまで行われていた「国津神達の祀りごと」とは「銅矛・銅鐸・銅剣」を使った「青銅器による祀りごと」でした。これらが弥生時代の後半に一斉に姿を消して(地中に埋納された)、やがて日本中で古墳が作られることから、祀りごとの様式が「青銅器」から「古墳」に変わったことが分かります。日本中でほぼ同時に起こった考古学的な大変化が、前述の記紀に書かれている「国作り」と「国譲り」の現象であり、具体的には青銅器の埋納が「国譲り」に対応していると考えられるのです。
したがって、日本の場合考古学的発掘成果と歴史学的文献記録は、全く良く一致していることになります。出雲の国の風土記には、荒神谷や加茂岩倉の地域を「昔オオクニヌシノミコトが宝を積み置いた場所なので神財の里と呼んでいたが、今の人は誤って神庭の里と呼んでいる」と記載されています。大量の青銅器がこの地域から出土したことから、これも考古学的発掘成果と歴史学的文献記録が一致している例と考えられるでしょう。
また、青銅器が鋳潰された事態とは、一体何でしょうか。山陰地方では比較的青銅器群が壊されずに大量に出土していますが、畿内など全国的には「銅矛・銅鐸・銅剣」が無傷の状態でそのまま出土することは多くありません。かわってこれらの青銅器が破片として出土する例が多いいために、青銅器群(銅矛・銅鐸・銅剣)が鋳潰されたと考えられています。
つまり、青銅器を使って祀りごとを行っていた国津神の拠点であった山陰地方では、比較的青銅器群は潰されずにそのままの形で埋納されたが、山陰から離れた地域では、貴重な金属であった青銅器は鋳潰されて再利用されたと考えられます。この再利用の結果、鋳潰された青銅器によって「銅鏡」が作られたのではないかと、私は考えています。
この三角縁神獣鏡は、現在600面近くも出土しています。黒塚古墳のように一度に40面近くも出土することがあります。中国からは一面も出ないので、現在三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないと考えられています。それよりも私は、三角縁神獣鏡の多くに「銅出徐州、師出洛陽」と書かれていることの方が重要な意味があると考えます。
神原神社の銅鏡の見方は?
景初3年の碑文がある三角縁神獣鏡が出土したのは、神原神社古墳だけです。畿内(大阪)の椿井黄金塚古墳からも景初3年三角縁神獣鏡が出土したと言われていましたが、発掘した森浩一さん自身が違うと言っていますので、名実共に「卑弥呼の鏡」は神原神社の三角縁神獣鏡だけです。しかし、私はこれをもって「神原神社が卑弥呼の墓」だとか「出雲の国が邪馬台国だ」とかは言いません。前項で紹介しましたが、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないと考えられていることに賛同します。又、一つの現象だけで断定するのは不正確になるからです。
それよりも私は、三角縁神獣鏡の多くに「銅出徐州、師出洛陽」と書かれていることの方が、より重要な意味があるといいました。この点を考えてみたいと思います。
「銅出徐州、師出洛陽」とは何のことでしょうか。現代から言えば、店頭に並んでいる商品の製造に関する記述です。使用した原材料や制作者や販売者などが書かれており、今日では賞味期限や消費期限も書かれ、さらに流通経路が特定できるようなバーコードがついている商品もあります。つまり、「銅出徐州、師出洛陽」とは、「徐州で採れた銅を使って、中国の洛陽の工人が作ったものです」と書かれていることになります。
徐州とは江南の地域で、三国志の時代では呉の国の範囲となります。三角縁神獣鏡の成分分析では、多くが中国南部で産出した銅が使われていることが分かっています。これは成分分析の物理学的特性と遺物に記載された商品表示が一致する例と考えられます。
では、「師出洛陽」とは何でしょうか。この意味は「中国の洛陽の工人が作った」と言う意味ですが、幾通りかの解釈が可能です。「中国の洛陽の工人が洛陽で作った」という解釈と、「中国の洛陽出身の工人が日本に来て日本で作った」という解釈の2つです。
つまり「銅出徐州、師出洛陽」は、「銅の産地」と、「職人の出身地」が書かれているわけですが、作った場所は書かれていません。極端な解釈をすると、台湾やベトナムまで銅と職人を運んで作らせた銅鏡を、再び日本に輸入したという仮説まで考えられますが、ここまでする必要性はないでしょう。
したがって、これまでの三角縁神獣鏡の発掘成果や発掘状況、また様々な論考を総合的に検証すると、「徐州(中国南部)で採れた銅を使って、中国の洛陽出身の工人が、日本で作ったもの」という結論に至ります。
貴重な金属を鋳潰してなぜ銅鏡にしたのか? なぜ、古墳の副葬品にしたのかなどの疑問はありますが、これが三角縁神獣鏡に関する私の現在の考察のおおまかな到達点です。
天孫降臨の話しは朝鮮にもあり、そちらから人や話しが入ってきたのではないか?
朝鮮との関連は、@の日本(山陰)と朝鮮との関係はどういうものか?の項で整理した通りです。朝鮮の神話にも、天空から神が降臨して王族の祖になる話しが残っています。ギリシャ神話でも、神々はオリンポスの山々に存在し、天空を駆けめぐっているストーリーとして書かれています。私も当初は、高天原は架空の存在で、ヨーロッパや朝鮮半島の神話のように、自然神信仰の中で、人間の近くに神々が一緒に住むことが出来ないことによって、天上界が創造されたのではないかと考えていました。
しかし、その後の研究の進展で、「縄文海進」という自然現象が地球の過去に存在し、その頃は、日本では平野部が全て水没していたために、平地ではとても人々が住めるような状態ではなかったことが分かりました。結果として、当時は20m以上の高台か山岳部でしか人々は生活することができませんでした。
縄文海進とは、氷河期の終わった後(この頃は海水面が150mほど下がっていた)から徐々に海水面が上昇し、約1万2000年前に現在の海水面に到達し、それからさらに上昇が続いて、今から約7000年前にピークに達して、その後温暖化が収束し、今から2400年前の縄文時代晩期或いは弥生時代の草創期に現在の河水面に落ち着いたと考えられている現象です。結果、今よりも海水面が高い時代が前後約1万年間続いていました。
このピークを地質学会では10m程度、我々の総合調査(2011年古代史(邪馬台国)サミットin伯耆の大会冊子45p以降を参照)では、10m〜20m程度あったと判断をしています。
古事記や日本書記や各国の風土記がまとめられたのは、紀元後の700年代です。この折りに、日本中で先祖代々伝わっていた口承による伝承記録を収集して、編者達がまとめる作業を行いました。古事記の前文に、太安万侶がこのくだりを書いていますので、この部分だけは是非読んでみて下さい。
この途方もない作業を行った集団は、その作業の量と質並びに奥行きから判断して、本当に天才中の天才達が集団で行ったであろうことは疑いようがありません。
さて、この折りの伝承記録に、昔の日本人・私たちの祖先は、10m〜20m以上の高台か山岳部に営々と住んでおり(前後約1万年間)、それを後の人々(縄文海進が終わった後の人々)が「高天原」と呼んでいた記録が伝わっていました。記紀の冒頭の大八洲の国生み神話では、佐渡島を双子に産んだとか、吉備で児島を産んだと書かれていますが、これも縄文海進の時代の記録です。また、風土記に書かれた「得塩=海潮」や「恋山=鬼の舌震」の伝承や、島根半島を4つの島に分けて考える「国引き神話」も、縄文海進の時代の記録と言えるでしょう。
以上、日本の場合は、神話や伝承の記録に、縄文海進などの地球環境の変動の記録を書き残しているため、ヨーロッパや朝鮮・中国の神話伝承よりも、相当古く(最低でも7000年前)より史実を含んでいる可能性が高いと考えられます。
したがって、天孫降臨の話しは朝鮮から人や話しが入ってきたのではなく、日本独自の記録であり、それは地球環境の変動という客観的な事実関係を書き留めた結果と言えます。
国津神は南方からやってきたのでは、沖縄方面にクロウミヘビを神の使いとする神事がありますが?
拙本にも書いていますが、国津神は「始皇帝を騙して日本にやってきた徐福の一団=五穀と百工と数千人の少年少女達」だと私は考えています。
かれらは、黒潮が対馬沖で分流し日本海に入ってくる「対馬海流」を利用して、山陰地
方に辿りついたと考えます。これは、当時の合理的で最善の航海の手法でした。
ニライカナイやマレビト信仰など、南方や海の彼方から祖先がやってきた信仰の形態は
沖縄だけでなく、紀伊半島などにもあります。これは、黒潮がいくらかの南方の産物を運
んできた記憶にも基づくものではなかと民俗学の柳田国男や折口信夫も述べています。
出雲大社の祭神は「ウミヘビではいないか」とも言われています。このウミヘビは「セ
グロウミヘビ」です。なぜかという原因については、対馬海流によって、南方種である熱
帯魚やウミヘビも日本海に運ばれてきます。夏場は、能登半島にまで達する状況です。
その中でセグロウミヘビは、秋になると海水温が低くなって仮死状態か死亡することに
なります。これは爬虫類であるヘビが冷血動物であることから来る現象です。10月頃になると海水温が低下して、仮死状態か死亡したセグロウミヘビが日本海沿岸の浜辺に流れ着くことがあり、これを称して「海神様」や「龍蛇様」と呼び、出雲大社などでも祀ったと考えられています。
この事柄と徐福との関連は、直接的には断定できませんが、対馬海流が大陸や南方から
の航海に非常に適しており、自然現象からもみても南方や大陸方面から自然物が漂着する状況を示した例としては的確な現象と考えます。
島根半島近くの海底に遺跡が発見されたというニュースを聞きましたが・・・
地球物理学の分野では、日本列島は、今から2000万年前〜1500万年前に誕生したと考えられています。当時日本列島も大陸の一部でしたが、地球上に10個以上あるプレートの内の4つがこの付近でぶつかっていたために、大陸の陸地の東の一部がプレートに乗ってはがれて、太平洋側に進んできました。このはがれた約2つの大陸の一部が、やがてぶつかって1つになりました。これが日本列島の出来上がりで、はがれた後の大陸との間の水たまりが「日本海」になります。この2つがぶつかった場所が、フォッサマグナと言われている糸魚川・静岡構造線です。2つの大陸の破片がぶつかった場所なので、糸魚川ではヒスイの鉱床が露出し、一方ぶつかって押し上げられた陸地が日本アルプスになりました。
日本列島は、その後も造山活動が続いています。東日本大震災もこの現れです。世界で一番地震が発生する場所(約2割)が日本列島なのは、4つのプレートがぶつかっているからです。沖縄でも海底遺跡があるといわれます。境港市でも縄文時代の海底遺跡があります。これらは、前述の日本列島の造山活動によって、沈降した部分です。
正確には、地質学者さんの調査が必要ですが、島根半島自体が佐渡島のように造山活動によって隆起して出来上がった陸地ですので、今日まで幾多の隆起と沈降を繰り返してきたと思われます。したがって、島根半島近くで発見された海底遺跡も、この様な例と考えられます。
神武東遷以前の記述についてどう考えるか?
今般のサミットの成果の1つは、「最新の考古学的発掘状況から考えると神武東遷はあったであろう」との認識が、安本・北條・田中の3人の間で一致したことでした。
ただ、安本・北條両先生は、神武天皇の出発地が、「九州である」と考えておられました
が、私田中は「山陰である」と主張しました。(実は、サミットの舞台に上がる前後のホテ
ルや控室では、この様な議論を3人の間で続けていました)
つまり、高天原(正確には高千穂の宮)は九州ではなく、山陰にあったということです。
その理由が神武東遷以前の記述に書かれています。以下に概要を整理しながら、なぜ山陰なのかの説明を行います。
神武天皇は、天孫であるニニギノミコトの子孫です。ニニギノミコトは、国譲りによっ
て、「高天原」から「葦原の中国」に降りてきました。これを「天孫降臨」と呼びます。(天
孫というのは、ニニギノミコトがアマテラスオオミカミの孫だからです。降臨は降りてき
たからです。)
その後、降りてきた辺りに「高千穂の宮」を立てて、神武天皇までの四代が住み続けま
す。したがって、高千穂の宮は「高天原」ではなく、降り立った「葦原の中国」の側に建
てられたことになります(つまり平野部に建っていた)。
しかし、現在「高千穂」と言われている宮崎県の高千穂も、鹿児島県の高千穂(霧島連
山)も、内陸部に入った山岳地帯に比定されています。これが、最初の間違いです。記紀には「葦原の中国」と、高天原から下りた平野部と書かれているために、「高千穂」は山岳部ではないのです。
次にニニギノミコトは、塩土の翁(又は塩土の爺)に出会います。(塩土の翁の話は大変
重要な話ですが、これは又別の機会に述べます。)
塩土の翁は、ニニギノミコトに娘を紹介します。つまり仲人になるわけです。この時紹
介されたのが、コノ花サクヤ姫とイワナガ姫ですが、天孫は美人の方のコノ花サクヤ姫だけを娶って、姉のイワナガ姫を返してしまいます。で、親の大山積神は嘆きます。
このコノ花サクヤ姫と出会った場所が、「浜辺」と記紀に書かれていますので、これも山の中ではないと明示してあることになります。したがって、「高千穂」は宮崎県の高千穂や鹿児島県の高千穂のような山間部ではなく、平野部であり「海と陸の境界周辺」であったことが分かるのです。これが間違いの二つ目です。
次に、ニニギノミコトは、塩土の翁に住む場所を紹介されます。(さしずめ不動産業者の
ようですね。)ニニギノミコトは、この場所がたいそう気に入って、「天津神の神殿」を建
てて、ここに2人で住むことにします。これを「高千穂の宮」と言います。
この時、ニニギノミコトは、なぜこの場所がたいそう気に入ったのかを述べます。理由
は三つ、1)唐(韓)国に向かっている場所、2)東の日がまともに当たる場所、3)西の日もま
ともに当たる場所、の3つの条件が揃っている場所なので、ここに住むと決めるのです。
宮崎県の高千穂も、鹿児島県の高千穂も、この3つの条件を揃えていません。地図を見
てもらうと分かりますが、この3つの条件を揃えているのは九州の北部か山陰地方しかありません。これが、間違いの3つ目です。
次に、記紀に書かれているニニギノミコトから神武天皇までの記述を読んでみてくださ
い。海幸彦や山幸彦の話やウガヤフキアエズの話まで、全てのストーリー展開が「浜辺」
もしくは「海辺」に設定されていることが分かります。したがって、これも宮崎県や鹿児
島県の山間部ではあり得ないことになります。これが、間違いの4つ目です。
間違いの5つ目は、神武天皇自身が、45歳の時に船団を組んで高千穂の宮から出発し
たと述べていることです。やはり、高千穂の宮が宮崎県や鹿児島県の山の中にあれば、こ
の記紀のストーリーは成立しません。舟は陸地を走れません。
最後のとどめの6つ目は、神武天皇の船団が出発してから「大分県の宇佐」に着くまで
に1か月と5日間かかったと書かれていることです。これも地図で確認していただければ
分かりますが、宮崎県の高千穂と、鹿児島県の高千穂からは直接船が出せませんので、そ
の近くの海岸から船団が出発したとしても、大分県の宇佐まではとても35日間もかかり
ません(すぐ近くです)。せいぜいかかっても、5日間か1週間程度でしょうか。船で35
日間も航海すれば、600キロから700キロ程度は移動できます。この様な場所は九州
には存在しません。宇佐の真裏の天草方面から出ても、35日間はかかりません。
ちなみに山陰地方から大分県の宇佐までは、600キロから700キロの距離がありま
すので、山陰から船団が出発すれば1か月と5日間程度かかって、大分県の宇佐に到着す
ることになります。したがって、神武天皇は山陰地方のどこかから出発したのであり、高
千穂の宮は山陰地方の海沿いのどこかにあり、その近くの山岳部が高天原だったことにな
ります。
邪馬台国や卑弥呼を大和朝廷や万世一系の天皇の中に位置づける必要性があるのか?
結論から言えば、前提として位置づける必要性はないと考えます。しかし、結果として一致する可能性は否定できません。
魏志倭人伝の記録が正しくて、邪馬台国が当時の日本を統括する中心的な国であったな
ら、当然天皇の所在地と一致する方が自然です。人口「7万戸」から考えても古代の大都
市です。また、100余国に分かれて騒乱していた日本の国を、30余国が協議して「共
立」した「卑弥呼」が立てば治まったとする記述からは、それは「天皇」かそれに近い存
在だったと言えるでしょう。
質問Bの項でも述べたように、記紀の記録や考古学的発掘成果を、無理やり魏志倭人伝
につなげる必要はありませんが、研究が進展すれば何らかの形でそれらのデータがリンク
をしていき、やがて一致点が広がっていくものと考えます。
出雲大社の大国主は西を向いている。徐福=大国主の理解で良いか?
山陰説では、永い間天津神が住んでいた日本に突然やってきて、当時最先端の中国の金属器(青銅器・鉄器)や稲作や医術(漢方薬)などの数々のサイエンスとテクノロジーを
日本中に伝えてまわった集団を徐福と徐福が連れてきた百工と数千人の少年少女と考えて
います。これが、ちょうど2200年前に突然弥生時代が展開した時期と重なるからです。
この国を造って、そして、また天津神に国を譲ったために、国津神=オオクニヌシノミ
コトは、天津神=天皇家によって未来永劫祀られることになり、この約束は今も守られて
います。オオクニヌシノミコトが、杵築の大社で西を向いて座っているのは、自らが来た
方角であると共に、始皇帝から今も日本の国を守っている意味があると考えます。
縄文海進は実際にあったことなのに、なぜ歴史家は問題にしないのか?
日本では、古代史の研究分野は、主に「考古学」と「歴史学」の2つの分野と考えられてきました。一方、自然科学の分野である地質学や地球物理学及び地理学等の文献を読ん
でも「考古学」と「歴史学」の話しはほとんど出てきません。今回調査した地質学や地球
物理学及び地理学等の文献には、「但し、考古学や歴史学の分野との相互検証はほとんど行
われていない」とまで明記してありました。
「考古学」と「歴史学」の側から見ても同じことで、「地質学や地球物理学及び地理学の
分野との相互検証はほとんど行われていない」のが実情です。
「縄文海進」自身は知られていますが、これが考古学や歴史学の分野とどのように関係
するのかといった総合的な研究はほぼ皆無に等しいと思われます。そういった点でも、今
回我々が行った「縄文海進に関する総合研究調査報告」は、日本の古代史研究にとって大
きな意味があるものと言えるでしょう。
神武天皇はある本で紀元前600年頃と読んだ。孔子は83代で生まれは紀元前551年である。出雲大社の宮司は現在84代だ。天皇は125代なので始まりはもっと古いのではないか。
天皇の年代を特定することは、原理的に非常に難しいことです。なぜなら記紀だけでは天皇の年代を算出することが出来ないからです。理由は2つあります。そもそも古い年代
の記紀の絶対年代(紀元何年かがわからない)が特定できないこと、200年や300年
生きたとさせる天皇もあり、現実的でないこと、の2つです。
一般的には現代から順番に年代を辿る方法がとられてきましたが、上記の理由で物理的
に途中で年代を辿ることは不可能になります。
それで安本先生などは、「年代数理学」という手法を編み出して、外国の王朝のデータか
ら古い年代の天皇の1代当たりの即位の期間はそう長くないと結論し、おおまかな年代推
定をしておられます。
しかし、これも別なデータを使って自分で天皇の年代データを作っているわけですから、
決定的な根拠にはなりません。
一見難しく見える問題ですが、数学の基礎知識があれば、他に方法があることが分かり
ます。これも、拙本に書きましたので又読んでみていただきたいのですが、以下簡単に原
理的な説明をします。
拙本では数式を使いましたが、ここでは幾何学で説明します。数字を使うか図形を使う
かは表現の問題だけで、一般に数学では図形と数式は変換できます(但し、非ユークリッ
ド幾何学を除く)。
例題は、ある国の大王の王朝が、A大王からD大王まで都合四代続いたと仮定してその
継承の具合を展開し、その図解をユークリッド幾何学で行います。
<例題>A大王からD大王まで都合四代として
・A大王が15歳の時子どもが出来て、65歳で亡くなり子ども(B大王)が即位する
・B大王が14歳の時子どもが出来て、60歳で亡くなり子ども(C大王)が即位する
・C大王が16歳の時子どもが出来て、65歳で亡くなり子ども(D大王)が即位する
・D大王が60歳まで生きて、この王朝は終わった
1)この場合、A〜D大王までの年代とは、X点からY点までの距離を求めることになる。
2)この求め方は、2通りあることが分かる。1つは、この図の上縁の距離を足す方法で、2つは、この図の下縁の距離を足す方法である。
3)X点からY点までの上縁の距離を足すとは、A大王の年齢65歳に、B大王、C大王、D大王の各在位期間を足すことである。大王の在位期間の求め方は、B大王はA大王の15歳の時の子どもであるので、B大王が50歳の時にA大王が亡くなって即位したことになるため、60−(65−15)=10年となる。順番に計算すれば、X点からY点まで、60+10+19+11=105年が求められる。→方法α
4)X点からY点までの下縁の距離を足すとは、A〜C大王が子どもを設けるまでの年にD大王の年齢を足すことである。15+14+16+60=105年となる。→方法β
5)したがって、方法αでも、方法βでも、同一の解が出る。
これまでの天皇の年代はほぼ全て方法αで行われてきましたが、前述したように記紀の記録からは天皇の年齢や即位の期間を特定できないので、解が出ませんでした。
しかし、方法βを使うと社会的平均的な年代の予測が可能になります。1人1人の天皇のの年齢や即位期間が分からなくても、子供を設ける社会的平均的年齢が推定できれば、おおよその年代が計算できるのです。私の計算では、紀元後180年前後に国譲りがあったと予想できました。もちろん±50年程度の誤差はあるので、130年〜230年の幅を持たせたいと思います。現代(2011年)から逆算すると1831年ほど前となります。
2)この求め方は、2通りあることが分かる。1つは、この図の上縁の距離を足す方法で、2つは、この図の下縁の距離を足す方法である。
3)X点からY点までの上縁の距離を足すとは、A大王の年齢65歳に、B大王、C大王、D大王の各在位期間を足すことである。大王の在位期間の求め方は、B大王はA大王の15歳の時の子どもであるので、B大王が50歳の時にA大王が亡くなって即位したことになるため、60−(65−15)=10年となる。順番に計算すれば、X点からY点まで、60+10+19+11=105年が求められる。→方法α
4)X点からY点までの下縁の距離を足すとは、A〜C大王が子どもを設けるまでの年にD大王の年齢を足すことである。15+14+16+60=105年となる。→方法β
5)したがって、方法αでも、方法βでも、同一の解が出る。
これまでの天皇の年代はほぼ全て方法αで行われてきましたが、前述したように記紀の記録からは天皇の年齢や即位の期間を特定できないので、解が出ませんでした。
しかし、方法βを使うと社会的平均的な年代の予測が可能になります。1人1人の天皇のの年齢や即位期間が分からなくても、子供を設ける社会的平均的年齢が推定できれば、おおよその年代が計算できるのです。私の計算では、紀元後180年前後に国譲りがあったと予想できました。もちろん±50年程度の誤差はあるので、130年〜230年の幅を持たせたいと思います。現代(2011年)から逆算すると1831年ほど前となります。
広島県は県北の三次市でも貝塚が出ているので昔は海だったんですね?
貝塚イコール海岸線とは言えませんが、今から7000年前の縄文海進のピーク時には近くまで海が迫っていたことは間違いないでしょう。
また、三次市は、かつて弥生時代の「四隅突出墳丘墓」の発祥地と考えられていました
し、日本書紀の異聞では「高天原からスサノオノミコトが降り立ったのは江の川の支流で
ある」と三次市を示していますので、考古学的にも歴史学的にも情報が集約できる非常に
重要な場所の一つと考えられます。
ちなみに、個人的には「高天原の東の外れが兵庫県の宍粟市の辺りで、西の外れが広島
県の三次市の辺り」ではないかと考えています。そして、その中心地が大陸に向かっての
ランドマークであり、海流に乗った交流の漂着点でもあった「大山〜蒜山」にかけての一
帯ではなかったと判断しています。
出雲神話ではなく山陰神話に賛同したい。伯耆の国も元は出雲であったという話しを聞いたことがあるが、文献的にはどうなのか?
記紀や風土記等を読む限りに於いては、伯耆の国も元は出雲であったという記録はありません。それどころか、すでに紹介したように「因幡」と「伯耆」と「出雲」の3つの旧
国は、記紀や風土記では厳密に区別して書かれています。しかし、この国書の記述の85%
がこの3つの旧国で占められているので、結果として「山陰神話」と呼ぶのが、書かれた
ままを表現している一番正しい言い方になります。
冒頭のイザナギとイザナミの条から、アマテラスの条、オオクニヌシの条まで、これら
3つの旧国と場所は、区別して書かれていますし、伯耆の国も元は出雲であったという記
述やそれを思わせる書き方はありません。(どうか原典を読んで確認してみてください。)
「伯耆の国も元は出雲であったという話し」は、後ほど記紀や風土記を読んでいない学
者さん達が書いた作り話と言えるでしょう。
そもそも旧国(都市国家)は、青森から鹿児島まで、日本中で75ヶ国ほどありました。
645年の大化の改新で律令国家が出来上がった時に、大和朝廷が治めることが出来たの
は、その内の66ヶ国でした。(東北地方がごっそり抜け落ちていました)
その後、京都の八坂神社に、この国が安定して治められるようにと「66の鉾」を納め
てお祭りしたのが、今日も続いている有名な「祇園祭」や「山鉾」の由来です。
したがって、日本の場合「旧国」は、世界的にみても相当古い時代からあったことにな
ります。(ヨーロッパでは200〜300年前まで旧国がありました)
又、「伯耆」の国の始まりについては、いくつかの伝承があります。今私が知っているの
は「波波来(ハハキ)」と「白亀(ハクキ)」と「母来(ハハキ)」の3つです。
「波波来(ハハキ)」とは、波の向こうから人々が来たという意味で伝えられており、東
伯耆の伝承です(ハハキ神社等)。後ほどなまって「ホウキ」になりました。
「白亀(ハクキ)」は、海からやってきた白い亀が、この地方に寄りついたという伝承で
淀江や大山の話しです。これも、後ほどなまって「ホウキ」になりました。
「母来(ハハキ)」は、母がいた場所或いは母がやってきた場所という意味で、西伯耆の伝承です。そのため、昔は「伯耆」を「母来」と書いていました。
それぞれ意味が違うように思われますが、この3つの語源(伝承)に、共通して語られ
ていることは、「昔この土地に海の向こうから人々がやった来て住み着いた」という内容で
す。そうだとすれば、この伝承が、相当古い過去を持っている可能性と、徐福等渡来系の
一団が住み着いた場所としての理解が出来る可能性があります。
それぞれの説の出発点が違っていて分かりづらい。各説や情報の共有化は出来ないものであろうか?
この点も大変重要な課題です。出発点が違っているのは、学問分野が寸断されて今日まで総合的な研究がなされていないという日本の古代史研究分野の構造的背景があります。
安本先生は、元は心理学分野を専攻されていた文学博士で、魏志倭人伝を古代史研究の
根本に置くべきと言われています。北條先生は考古学者で、その中でも古墳の研究が専門
分野です。私は、大学の非常勤の民間の研究者で、幸い専門分野が無いために、歴史学か
ら考古学・民俗学・自然科学の分野を横断し、中国の文献も魏志倭人伝にこだわらずに全
ての文献を検証すべきと、全学問分野を研究対象にする必要性を提唱してきました。
今回のサミットで、3者間で明らかになったことの一つに、この問題があります。サミ
ット大会冊子の「鉄器」のデータを見て貰えば、3者のデータが3者とも違っていること
が分かります。
これは、最初安本先生が、私のデータを見て間違っているのではないかと指摘されたこ
とによります。鉄器の出土が、九州より山陰が多いかの様なデータは間違いだという指摘です。しかし、北條先生が、そうではないと言われ、議論が噛み合いました。
北條先生は、安本先生のデータは広島大学の考古学教室のデータを使用したもので、青谷上寺地や妻木晩田のデータが入っていないからだと言われました。自分(北條先生)のデータにも、山陰の遺跡の反映は十分ではないと言われました。私田中のデータは、鳥取県の教育委員会が全国調査したデータでした。それで、「鉄器」のデータが、3人とも異なる結果になっていたのです。
これが現在の日本考古学の分野、いわゆる考古学会の現状を表しています(或いは古代史研究全般)。つまり、情報の共有化がはかられていないということなのです。
北條先生の話によると(北條先生は日本考古学協会の25名の理事の内の1人です)、2000年代の初頭に、これではいけない(考古学的発掘情報の共有化がはかられていないという現実)という意見になり、情報の共有化を行うことになったのだが、途中で立ち消えになって、結局現在も出来ていないという話しでした。
したがって、日本の場合、青銅器も鉄器も古墳も、本当の発掘数や分布やその他の内容に関する事柄は、誰も知らないのです。それぞれの大学や教室や或いは学閥が、それぞれに研究しているだけで、統一的な作業や検証はいまだに行われていないのです。これがこの国の最先端の研究の実情であることが、残念ですが事実を持って確認できました。
古代は中国から輸入するまで文字がなかったと言われたが、ホツマ等の古代文字(神代文字)については、どういう見解か?
この意見も良く出されます。ホツマ等の古代文字(神代文字)については、現在確認できていないというのが定説になっており、私も今はその範囲にいます。
いくつか理由はありますが、富士文書も含めて、これらの一連の文書が比較的最近にな
って出てきたものであること(古いものでもここ50年ほどでしょうか)、東流日外三郡誌
(ツガルソトサングンシ)等の古文書は、紙も現代のもので、墨は筆ペンであったことが
分かり捏造文書であったこと、書かれている記事に執筆された年代よりも後のことが書か
れていること(千年前に書かれているハズの文書に、500年前の出来事が書かれている
というようなこと)、等々が主な理由です。
全く信用できないものかどうかも含め、今は時間がなくて検証できていませんので、今
後の課題とさせていただきます。現状は、多くの研究者や学会が否定できない文書群(古
事記、日本書紀、出雲の国の風土記、並びに中国の28の国書等々)だけを対象に、論説
を展開しています。今後の課題です。
以上、大変遅くなりましたが、去る2011年10月1日に開催しました「古代史(邪馬台国)サミットin伯耆」の会場で、多くの質問をいただいた内容について回答一覧をまとめました。ほとんどの質問が私田中へのものでした。質問の趣旨に添うようにまとめたつもりですが、手短にまとめたこともあり、不十分な点も多々あると存じます。ご検証いただけると幸甚です。引き続きのご支援ご指導をお願いし御礼とします。
島根県立大学北東アジア研究センター市民研究員
山陰古代史研究会設立準備委員会代表
古代史研究家 田中 文也
山陰古代史研究会設立準備委員会代表
古代史研究家 田中 文也