まちの歴史

縄文時代 - BC8,000年頃〜BC300年頃

 いままで智頭町で縄文遺跡は確認されませんでしたが、智頭病院建設に伴う発掘調査によって、西日本最大級の縄文遺跡が発掘されました。これにより、智頭の地が遙か古代から重要な地域であったことが推測されます。


弥生・古墳時代 - BC300年頃〜7世紀末

 智頭には、弥生時代後期の土器が数多く出土しています。縄文遺跡も発掘されたことから、弥生時代前期から中期の遺跡も、どこかに眠っているものと思われます。
 また、現在30基の古墳が確認されていることから、活発な地域活動が行われていたことが覗えます。


奈良・平安時代 - 701年〜1191年

 奈良時代には、鳥取県域には因幡国と伯耆国が置かれ、鳥取県東部には智頭郡を含む7つの郡に分かれていました。
 『日本後紀』(808年)には、智頭郡の駅馬の記録があることからも、この時代には既に交通の要衝地だったことが覗えます。
 平安時代には、因幡の国主 "平時範(たいらのときのり)が、国府(現在の鳥取市国府町)に向かうまでの様子が記された日記『時範記(ときのりき)』には、智頭町の志戸坂峠で国主を迎える儀式「境迎え(さかむかえ)」の儀式が行われたという記録も残っています。


鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代 - 1192年〜1602年

 公家から武士へ政権が移動し、この智頭町でも有力な豪族が守護た地頭として支配するようになります。戦国時代になると、智頭町は尼子氏と毛利氏、後半には織田氏(秀吉)と毛利氏の最前線となり、熾烈な争いが繰り広げられました。
 このような理由から、智頭町には27つもの山城跡地が確認されています。
 また、智頭の宿場町のはずれにある関屋の番所跡には、兄弟が織田方と毛利方に分かれて戦ったという史実も伝えられています。


江戸時代 - 1603年〜1867年

 江戸時代、鳥取藩は池田藩となり、初期には、岡山池田藩との国替えが行われたものの、 明治時代までつづきました。その国替えの際に、初代鳥取藩主 池田光仲(いけだみつなか)が、亡き父の位牌とともに、智頭の興雲寺に泊まったことから、このお寺は、鳥取藩の庇護を受けることになりました。
 また、智頭の宿場町は、鳥取県最大の宿場町として栄えました。現在、一般公開されている石谷家住宅(国・町指定登録有形文化財)は、智頭の宿場町「智頭宿」の中心部に位置し、 当時は大庄屋をつとめていました。
 江戸時代後期には、智頭宿は大変な賑わいで、逗劉禁止のおふれ書きまで出されたといいます。
 ちなみに、幕末に至るまでの214年間に、参勤交代で鳥取〜江戸を178回も往復しています。


明治以降 - 1868年〜

 幕藩体制から中央集権国家に移り、智頭では各村が合併。
 昭和10年2月には、智頭町・山形村・那岐村・土師村が合併し、智頭町に。
 昭和11年には、富沢村を編入。昭和29年7月には、山郷村が編入し、現在の智頭町に至ります。


智頭の名前の由来

 『日本後紀』(808年)の記録では、智頭郡道俣駅(ちづごおり みちまたえき)の駅馬の記録があり、奈良以前より智頭という名前は存在しているようです。
 一説には、道俣(みちまた)とは、『道が合流するところ』という意味があり、元々は『道頭(ちづ)』・・・道の頭という意味から変化して『智頭』になったのではと云われています。
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